昭和51年09月27日 朝の御理解
御理解 71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
信心の稽古をさせて頂くと「ここへは信心の稽古に来る所、話を聞く御祈念をさせて貰うやはり信心の稽古です、けれども見て帰る聴いて帰るというだけではなくて、見て帰るとそれを自分の稽古の対象としていくと、昨日はあの様に盛大に婦人部の方の大会がございました、一日賑わった訳ですが、昨日はいうなら朝参り的信心をなさる、本気で信心の稽古に通って見えれる方達と、日頃はあんまりお参りをしない人達。時々参って来る人達、そういうまた始めてお導きを受けて、お参りをして来た人もあります。
昨日のそのおかげを受けたという事が、どういう意味でなら例えば御用をなさった方達お世話なさったかた達は、もう本当にその事を真心で打ち込んでの、いうなら御用信心が出来られてもうそれだけでも、おかげを受けられた訳です。けれども昨日いちばんおかげを受けたのはね、あのういうならば初めてお参りをしたと、言った様な方達が一番おかげを受けたという意味の事を頂いて、本当に有り難いと思ったんです。
それは話を聴いても分からない、また信心をどう言う様にしなければならないかという事も、分からない人達ですから、けれどもねあの見て帰ったということです。いうならば信心の稽古される方達の雰囲気にあったり、または班別懇談で各部屋部屋、部屋の全部を使って倉庫の二階まで使ったぐらいでしたからね、けれどもどこを歩いても何処を見ても信心のいうならば、薫り漂っているということです。私も昨日朝あのう感じた事でしたけどんも、部屋を一遍だけでも見て回ろうと思いましてからずうと見て回りました。
直子の部屋やらそれから幹三郎、栄四郎が使っておる部屋やら、もう久し振りにあちらを見回りました。けれどもただただにお客さんがあるから、片付けたと言った様なもんではなくて、あのうその部屋部屋に彼達はたって彼達に、信心の雰囲気が非常にあった事です、私は本当に有り難いと思いました。小さい部屋ですから、まぁ十人も入れば一杯になるような部屋ですけれども、いうなら成る程教会家族の人達の部屋だという感じであります、どの部屋もどの部屋も御祈念が出来るような雰囲気があるということです。
例えばカレンダーひとつでも調度品一つでも、何とはなしに信心の匂いがある事です。例えば私がそういう風に感じ取らせて頂いた様なものがです、なら始めてお参りされた方達もやはりそんなものを感じ取って、なんとはなしに帰られた。だから信心の稽古という事は話しをする頂くということだけではなくて、そのよりよい信心のたたずまいというか、雰囲気と言った様な事も、自分の家に持って帰ると言う事が要るですね。
あなたの部屋がもうその場で、いうなら御祈念が出来るような雰囲気があるかどうか、やはりだんだん信心が熱心になってまいられます、皆さんがここでの謝恩祭いわゆる宅祭りをなさる人達の家庭に参りますと、それが非常にいわゆる合楽で見てきた一つの小型のような感じがするんです。その部屋に入っただけで有り難くなる、その部屋に入っただけで御祈念しなければおられないような感じがする。いうならば落着いたムード、各家庭にもやはりそういう、その一つのムード作りということ。
なら始めてなら皆さんのところに訪問される方があるとしましょうか、「ここは信心を手厚うされる家だなぁ」と、それこそ言わんでも見られただけでも、それがまぁ与えられるぐらいな雰囲気を、銘々の家庭に持ちたいですね。ただ教会にお参りをしておる、熱心にお話しを頂いておるそれも大事です、けいども見て帰ってのいうならば真似事でも、自分の家庭にです教会の小型のような、私はお広前の雰囲気がですお互いの家庭にも、なからなければいけないということです。
やはりあの信心が好きになって参りますとね、もうそれこそ何はなくてもね、お神様の部屋だけは有り難い雰囲気が出来ておる。いまご神具一つでも大変高いですから、ご本部参拝私共させて頂く度に、ご道具をひと品ずつでも買って来るのが楽しみでした、折角買わして貰うならいいのがいい一遍には買い切らん。それでそのご神具の一つずつでも揃えていくという事が楽しみ。ただあのうお祭りしてあるではなくて、やはり雰囲気ねそれこそ教会の真似ですね、ご神前には小さい玉串案を置いて扇子をこうおいてある。
先生が御祈念しなさる時と同じような格好で、いわば見様見真似で覚えておる。私はどうしても信心さして頂くならね、そういうところも稽古の一つだと思うんです、お互いのところになら信心のない人が見えて、例えば信心の雰囲気たたずまいというものがです、ただ天地書附がチャンとあって、そのうただそれを目当てに拝みよるというだけではなくて、そこに不思議なまでの雰囲気というものが、部屋に漂うようなね一つおかげを受けたい、そこからそんならまぁ言うならばご祈念が出来る。
よい御祈念が出来る。いやしなければおられない感じがする、その部屋に行っただけで御祈念をしようごとなる。昨日最後に皆さんにお話し聞いてもらいました事は、合楽の方達の事を芯にしてお話しさせて頂いた。この合楽の石浦のこっちが石浦で、こっちが指出ですね、石浦の田中さん田中初美さんの、昨日の朝お知らせを頂かれたお夢を頂かれた話しと。それからこちらの差出の方の久保山千代子さんの、もうこれは以前でしたけれども「奉る通」という事を頂かれた。
この「奉る通」と言うのは、みちというのはあのう「通る」という字で頂いておられるですね、ここに大変意義があるんです、普通の道路の道ではなくて、いわゆる竹内通教先生の「通」です、通ずるという字ですね。本当に神様とは未だ信心も、まぁあの時熱心には参っておられましたけれども、そのう次々と神様のお知らせを頂かれるのも、もう本当にあのうそのう有り難いお知らせを頂かれる。「奉る」という事とその通ずるというその通ということは、どこに通ずるかというと、天地に通ずるという意味なんです。
いわば奉ると言う生活を、私共が日常生活の上に頂いたら、そういう生活を信心生活というのであり、そういう生活は生活そのものが、神様に通ずるのです。私は金光様の信心はどこまでも「家業の行」と仰るうちのもう私共の生活、より生き姿そのものが信心でなからなければならないということです。昨日朝も昨日聞いて頂きましたように、極端な話しですけれども、それこそ金光様只今から天津祝詞も称えんでもです。
ただ「おかげは和賀心にあり、おかげは和賀心にあり」を、少なくても日に五十ぺん称えてという話をしましたね。あんまり熱心ではない私は信者さんというか、そりゃお参りをするから熱心という事ではないです、私はその行に取り組むという、金光教の信心振りというものが、生活に現れてくる程しに取り組むということが、熱心な信者さんだと私は思うです。合楽でおかげを受けたと、合楽の人から話しを聞いてそれを成る程と思うて、それこそ馬鹿の一つ覚えのように成り行きを大事にする。
という事を徹底して身にそれを行とさしてもらう。必ず御神水のお供えを毎朝さしてもらう。しかもそれをお茶に入れて家族中の者で頂く、なにがないしかのお賽銭だけは、もう必ずお供えをしておる。私はそういう生き方がです、それご持っとんなら立派なものになって、けどもそれを貫くしかも二年間貫いておられるというところにです、金光様のご信心振りがだんだん出来てきておるという、まぁ冗談のようにいわれると、もう「なにか問題があると成り行き成り行きというて」と言うというんです。
朝学校に行く前に子供達が必ず、御神水の入ったお茶を飲まなければ学校に行かん、ならね徹底しているわけです。それで成る程おかげを頂くなということです。そんなら毎日信心の稽古にここに来ておりましてもです、どこを稽古しどこを頂いて帰るかと、いうならばですね、神様へ通ずる神様へ通うような信心生き方、修行が出来ているのかどうかということです、こりゃ神様と交流しなければ、おかげになって来ないのですからね。心の中にいつも成り行きを大事にする事を心掛けておる。
それこそ日に少なくても五十篇は「おかげは和賀心にあり、おかげは和賀心にありと」と称えておる。御神水だけは御神飯をお供えせんでも御神水だけはお供えをする。だからそれがもっとなら垢抜けした、なら日参り夜参りでも出来るようになり、信心の何たるかもいろいろ分からしてもらい、そしていわゆる「奉る通」といわれる信心が出来る。いうならば一切が神様の御物であるという事と同時に、御事柄であるということまた同時に、この身体までも毎日神様に奉っての生活。
「ここには信心の稽古にくる」私はそう言う事を稽古する事だと思うです。今日も目覚ましのおかげを頂きました、この身この心を神様に奉る、奉ったものをどうぞ又御用に使こうて下さいという事は、その奉ったものをお下がりを頂いて、この身体を使うということになるのです。給料を貰ろうて来た神様にそれを全部奉る、その中から生活費を頂く、お野菜を買うてきた魚を買うてきた、神様に一遍は奉る、そしてお下がりを頂くと。ご飯を炊かせて頂く畑に出て草を取らして貰う。
身体を奉ったものをお下がりを頂いて、ご飯を炊かせて頂くのであるから、良いご飯が出きるはずです。お下がりを頂いてこの手身体で草を取らせて頂くのですから、お野菜ならお野菜がよう出来るはずです、「私」という我がないから。私はここへ信心の稽古に来るということはです、金光様のご信心はどこまでもです、家業の行が出来る、自分の生活全体が信心であるという稽古より外ならないのです。教えを例えば暗誦したとか、祝詞を覚えたということが信心の稽古の眼目じゃないです。
私今日ある人の事をお願いさしてもらよったら、なんもないですけど四角い扇子。四角い扇子でですから広げたっちゃこの四角の団扇(うちわ)のごとしかならんと言う様な感じの扇子を頂いたと、折角ならば末広になっていくおかげを頂かにゃいかんとです。扇子はこうずうとこう末広がるという訳、それにはねやっぱ肝心要めのところがです、金光様のご信心は火や水の行じゃない家業の行と仰る。その家業の行の中にです、生き生きとしかもありありとおかげを現していけれる。
生き生きと神様をいわゆるはっね人が尋ねてきても。あちら金光様のいわば信心の、いうならば雰囲気というかね、どこか違うと思よったらお座敷にあんな立派なお神様がお祀りしてあった。違うと思よった、それは生活そのものが信心になって来るからなんです。昨日始めてお引き寄せ頂かれた方達が、熱心にお話しも聞かれた、いろんな行事も参加された、けれども実際は信心は分かられたとは思われない。けれどもお広前の言うならば、たたずまいの中からです信心とは。
まぁ有り難いもんだなっと言った様な程度のは、頂いて帰られたであろうと。神様もその事をいうて下さったんです。それは例えばあのう今度の大会のまぁ特徴というか、おかげを受けた特徴ということになりますでしょう。いうならば皆さんの熱意がそういう形の変わった、合楽示現活動を出来られたということになるのです。生活の中にいよいよ「奉る通」を現して行く、その生活そのものが天地に通ずる天地に通うというのです。だからおかげ頂かないはずがない訳です。
私達の生活が果たして、天地に通うような生活をしているだろうか。ただ我の生活いわゆる我情我欲の生活。それでは折角いくら神様の前に、いうなら逆たん坊打って拝んでもです、天に通ずるようなおかげになって来ないということです。生活そのものがそこでです私共がなら自分の家にお祀りしてある神様を、拝む時にまたその部屋に言った時にです。やはり前を通る時なら一礼せにゃおられないのであり、又その暇があるなら神様の前に座って、御祈念しようごとなるような雰囲気をです。
合楽でいうなら見て帰って自分の家の神様。または自分の家の神様のお広前の雰囲気というものをでえす、作るそういうこともやはり信心の稽古をさせて頂くためには、必要であるということです。そしてぎりぎり肝心要めのところは、神様に通ずる天に通ずる「奉る通」という道は、奉るという生活は必ず神様へ通ずるというのです。私はその事を繰り返し思わして頂いて、はぁその「通ずる」というところが素晴らしいなぁと私は、昨日から今日にかけて思いよるんです。
それを頂いた時にも何回も聞いて頂いた話ですけれども、果たして自分が言うたりしたりしている事が、天に通ずるような生き方をしているだろうかということなんです。天に通じ神様に通じてこそ、そこにおかげのルートというものが開かれるのですから、今日は信心の稽古ということをです、ただ聞いて帰るというだけでなくて、聞いて帰って実行するということだけではなくて、そういうおかげを頂けれる雰囲気を、自分の家庭にも作ろうと言った様な事を聞いて頂いたですね。
どうぞ。